明治村なのに明治の建物ではない帝国ホテル。明治村の正面玄関から一番遠いところにライトの日本での数少ない作品の1つを見ることができます。奇しくも、帝国ホテルの竣工の披露宴が関東大震災の当日であり、多くの建物が被害をこうむった中で、帝国ホテルだけがガラス1枚すら割れなかった
というエピソードが有名です。
ちなみに帝国ホテル自体は1890年(明治23年)に開業しており、ライトは新館増設のために来日したのであって、1923年(大正12年)が帝国ホテルの開業年ではないことをお間違いなく・・
まずはライト自身の話をしておいたほうがいいでしょうね。サラっといきます。
ライトは1867年(慶応3年)アメリカ中西部の大草原地帯、ウィスコンシン州リッチランドセンターで生まれます。
早くから建築家を目指してたライトは大学教育もほとんど受けず、シカゴに出てLouis Henry Sullivanの設計事務所で働く。当時のサリヴァン事務所のあるシカゴは、ちょうど近代化のためのオフィスビルの設計に大忙しという時期。ときどきビルの注文主から断りきれない住宅の依頼を受けるが、それを担当していたのがライト。
つまり、ライトは住宅設計係ね。
彼はサリヴァンに黙って住宅設計のアルバイトをして解雇される。そこで自分で設計事務所を開きます。
彼の生まれ育った草原のイメージとサリヴァン事務所で鍛えられた腕で独自の住宅様式を生み出し、独立後数10年ライト事務所は精力的に活動する。
その時期に、ある建築主の夫人と恋仲になり、なにもかも捨ててヨーロッパに駆け落ち!
再び帰国したライトには人生の再設計をする必要があるが、もう昔のように仕事が入ってこなかった。
「仕事は来なくとも教えることは出来る」と、自宅兼工房兼建築学校を開く。
これがTaliesin(タリアセン)。ライトの話をするときに、このTaliesinという言葉がよく出てきますので覚えておいてね、Taliesinとは自宅+工房+建築学校の名称です。
「さぁ、心機一転頑張るぞ〜」・・と思ったかどうかは知らないけれど、過去をさかのぼってみるとそういう方向でしょうね。まさにこの時期に、帝国ホテルの設計依頼が来たのでした。
このページは帝国ホテルの紹介をするので、ライトの「人となり」はここまで。とても人間くさい話でしたね。今の話を踏まえて帝国ホテルを見てゆきましょう。
まず、東京にあった頃の帝国ホテルは、背景にこんな小山は見えるはずも無く、もっと都心の中にあったことを想像してください。どうでしょ?どう考えても日本に建つべき風貌をしているとは思えないですよね。広大な草原の中に、はいつくばるように建つ草原様式(Prairie
type)です。
彼が、日本ではじめて海外に通用するレベルのホテルの設計を依頼されたときに「日本らしいもの」を考えていて当然でしょう。しかし前述したように、あの暗黒の時期に今後の人生をも左右するだろう設計依頼が来たら、自分の力をじゅうぶん惹き出せる一番最高のネタを持ってきた、と考えるほうが自然と思いませんか?(とりあえず僕ならそうする)
否応なしに目に飛び込んでくるのは、2色の材料とデコボコ感。茶色は煉瓦、グレーは大谷石。大谷石と言われてもピンと来ないが「火山灰+軽石を圧縮したもの」というとわかるかな?軽石系だけに「巣」だらけで加工がしやすい。ディテールをよーく見てみると、大谷石だけは結構細かい装飾が施されている。もっとよくみると、その模様は幾何学的な組み合わせばかりなんです。
お盆のようになっている正方形の大谷石は、かつて樹木が植えてあったようです。
では、玄関口へ。右の写真は2階に上がって柱の部分を見たところ。柱の入隅部に照明を入れてそこに煉瓦の隙間を作り、光が漏れるように演出。
昼と夜ではこんなに雰囲気が変わる。
ロビーの写真を2枚撮っています。
左が外が明るいときに撮ったもの。右は明治村が運良くナイター営業をしていたので、日が暮れてから撮ったもの。こんなに雰囲気が変わるのですね。ハロゲンライトですから、白熱球の出す光と似ています。つまり赤系をより赤く見せてしまう。ちなみに2階奥に人の写真らしきものが見えていますが、彼こそフランク・ロイド・ライトなのです。
今度はロビーを側面から見てみましょう。この光の漏れ具合、わかります?右の写真はロビー両脇の中2階でライトが設計したお馴染みの六角形テーブルと椅子です。これは現在の帝国ホテルでも見ることが出来ます。
ちょっと日が暮れてからの写真。ライトのライティングは本当にお見事です。
なんていうのでしょうかねぇ・・「暖炉のある部屋の暖かさ」とでも言いましょうか?ほんわかしてくるんです。ここにライトの幼少時代、広大な草原のなかにある住宅のイメージを再現させたかったのでしょうか?
賛辞ばかり書いていられません。
建築畑ではない人がこの帝国ホテルを見ても、たぶんこう思ったことでしょう。
天井高があまりにも低いんじゃないか?
その感想は正解でしょうね。こんな天井高では、とてつもなく圧迫感があります。書籍を見る限り、そして彼がアメリカ人であることから推測して長身であったはず。自分が長身ならばもっと天井を高くするでしょう。173cmの僕が手を伸ばしても天井に届きそうなくらいの天井が日本初の国際ホテル正面玄関となっていることに疑問をもって当然です。優雅であるべきホテルですらこんな調子であるなら、彼の設計した住宅も似たり寄ったりのはず。
明らかに彼はわざと天井高を低く設計しているとしか思えません。それは「空間を支配したい」という願望、もっと大げさに書くならば、「自分が支配した空間に人がいることで、その人すら自分が支配しようとする願望」が如実にあらわれているのではないか?と思うのです。
僕がそう思っただけで、そんなことはどこにも書いてないですけどね。自分の感想を隠してまで「ライト万歳!」みたいな賞賛の書籍を鵜呑みにするのも危険だと思うので書いておきました。
さて、来日中にライトは自由学園明日館と山邑邸と帝国ホテルを同時進行で手掛けていました。
外国人設計者と日本人施工者の間には、言葉と施工技術と職人気質の壁が、彼をかなり神経質に追い込む。そのため施工期間と費用が膨大に膨れ上がり、帝国ホテルで手がいっぱいだったライトは、自由学園の基本設計はしたものの、実質は弟子の遠藤新にほとんど任せていた。
実は、東京の帝国ホテルにライトの設計した部分がまだ残っていることを、皆さんはご存知でしょうか?公園側の正面玄関入ってロビーを2階に上がる。その左の奥まったところに「オールド・インペリアルバー」があります。たまにはこういうところで彼女とデートしてみてはいかがでしょうか?(注:ちゃんとした服装で行くように)
そのときには、このページに書いたライトのエピソードを思い出してくださいね。