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かわらミュージアム 出江寛さんはアルミやステンレスといったいわゆる無機質な素材を意欲的に使う建築家。そこに情念をこめていかに魅力をひきだし生命を帯びさせることにつとめている。 参考:「新建築」、「日本の建築家5 出江寛 無頼の花」、「数奇屋の美学」 見学日時:1999年11月18日 ページの作成者: 個人ページのご案内: |
かわらミュージアム 近江八幡は城下町として、また近江商人の本拠である商業都市として繁栄し、発展を遂げてきた町です。八幡掘は天正年間(約400年前)に豊臣秀次が八幡山に城を築き、その際に琵琶湖に通じる運河としてつくられました。 その、八幡掘のほとりにこのミュージアムは建っています(上写真)。
近江八幡に瓦産業が興ったのは日本では比較的早く、江戸初期に始まるとおもわれています。当初は、おもに寺院建築を中心とした本瓦葺きが主流だったそうです。1674年に近江(現在の大津付近)の西村半兵衛により、安価で軽い桟瓦(さんがわら)が考案されたことにより、徐々に一般民家にも広く普及しはじめ、八幡では生産の立地条件も整い、隆盛を極めて「八幡瓦」と称するようになったそうです。
八幡で瓦産業が盛んになった理由は、おもに三つがあげられます。
八幡で瓦産業が盛んになった理由として二つ目には、重いかわらの運搬に八幡掘の船による水運が利用されたことです。 城の防御の昨日と同時に城下の都市振興政策の一環として商業を発展させるために豊臣秀次は掘りを使いました。 敦賀から大阪の南北に琵琶湖を通過する船団に対し、この八幡掘を通過させるなどして、八幡の商業を保護させる商業活性化政策をとりました。当時、近江は中世の琵琶湖は日本の中心に位置し、都にも近いので交通の要所でした。 余談になりますが、昔から「いそがばまわれ」ということわざがありますが、「まわれ」というのは琵琶湖のことだそうです。八幡も水運交通の要所でありまして、その結果、城下の商工業は発展し、全国に名をはせた近江(八幡)商人をも輩出することとなりました。
八幡で瓦産業が盛んになった理由として三つ目には、瓦の原材料である粘土が浜辺で豊富にとれたことです。太古の琵琶湖の面積は現在より広く、周辺の山系から運ばれてきた体積物が風化し、湖底に積もり、これが地域に最も適した良質の粘土となったそうです。 これに関して僕が面白いと思ったのが、以下に述べる、瓦と堀と水田の関係です。
八幡堀や西の湖には、上流からの栄養分(汚れ)が運ばれ、泥として底に沈殿していました。同時に栄養分が豊富な泥なので、水藻もたくさん生えました。これらの藻や底泥を、周辺の農家の人達は「藻とり」「泥かき」をしていました。 その泥や藻は田んぼに運び入れられ、肥料として使われると同時に、水路の深さを保ち、瓦やそれを焼く薪などを運ぶ船が通る流れが維持されました。 田んぼに泥や藻をいれると、土が高くなり、水利の便も悪くなります。そこで、田んぼの下にある粘土層が八幡瓦の材料としてぬかれました。しかもその粘土は(藻などの?)植物の繊維をたくさん含んでいましたので焼くと海面状の細かな孔になるそうで、そのような瓦は耐寒性や適度な吸水性があるそうです。 この有機的サイクル、本当に魅力的な生態系ですが、地元の瓦屋さんに聞いた人が実際は少し違うという説もあるらしいです。
現在では上に上げたようなサイクルはないように思われます。水田の整備に伴い粘土がとれなくなったからです。今は八幡周辺の均衡から搬入され、製造はオートメーション化されているそうです。 水田の整備以外に僕は、堀の整備と、科学肥料の普及も原因でないかと思います。 今の八幡堀は水が濁っています(富栄養化しています)。昔より流す水が汚くなったのも濁っている原因に違いありませんが、浄化してくれる藻がすくない用に思われます。そして藻の少ない原因は堀をコンクリート三面張りで整備したことではないだろうかと思います。 さらに、藻が水から養分(汚れ)を吸い取ってくれても、堀の外(水田)に出していないのではないでしょうか。 もちろん、堀の整備も、科学肥料の普及も時代が必要としていたのですが、やはり昔の生態系にはあこがれを感じてしまいませんか。
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