百貨店は包装紙を売っていると言われるほどのブランドイメージを誇り、集客マシーンとしての入れ物を作れば、勝手に客が集まって勝手に商品が売れてゆく。そのブランドイメージと中流意識への芽生えた時代の波に乗って、フロア貸しという装置産業の独自経営体制を築いてきました。
しかしながら、大型スーパーの百貨店化や、カテゴリーキラーの大型店などの出現、そして多店舗化を急ぎすぎたそごう百貨店は、2000年7月民事再生法の申請をする。民事再生法とは簡単にいうと「これ以上借金が払えないから帳消しにしてください。そうしないと、階層下の企業もすべて共倒れしまっせ」というもの。そごうが要請した債権放棄額は6,319億円。それでもそごう前会長はウン億円の自邸でのんびり暮らしている、という滑稽なシーンが7月のワイドショーで流れていました。
そごう本店は、村野藤吾(むらの
とうご)氏の設計。増築・改装を重ね、当時の面影を残すのは外観と風除室(ふうじょしつ)くらい。百貨店は美術館と同じく窓を必要としない形式が多く、その外装も独自の装飾が施されます。最近の大型店舗は、逆に窓を大きく取った開放型の店舗が流行りですね。縦ラインを強調した外装。店舗のデザイン6割、中味で4割が売上の秘訣
と当時の会長の声。村野藤吾の意気込みはさぞすごかったことでしょう。
僕から見ると縦ラインのルーバーだけでは村野藤吾らしくないと思うのですが、建物の中間くらいにやはり彼らしい有機的なデザインがアクセントに入っています。屋上からその部分を撮影してみました。これがあるのとないのとではだいぶんイメージが違いますね。
当時のデザインが残るもう1つの部分、風除室の天井のモザイク。きれいですねぇ。
百貨店に行くという行為そのものが庶民のステータスだった時代、この天井を見上げて百貨店の豪華さと別世界を味わっていたのでしょう。
- 天保元年(1830年)
- 十合伊兵衛、大坂南組上難波北之町の坐摩神社の南隣に古手屋(古着屋)「大和屋(やまとや)」開業。(そごう創業)
- 明治10年(1877年)
- 呉服商として心斎橋筋1丁目鰻谷角に進出。
- 明治27年(1894年)
- 心斎橋店現在地に移転、十合呉服店として出発。
- 明治30年(1897年)
- 合名会社設立 これに反対する大番頭以下多数退職。
- 明治41年(1908年)
- 大阪の呉服店として初めての土蔵造りの店舗完成。
- 大正8年(1919年)
- 大阪本店増築開店、高層店舗 「株式会社十合百貨店設立」。
- 昭和3年(1928年)
- 大阪本店下足預かり廃止。
- 昭和10年(1935年)
- 村野藤吾設計の大阪本店、新店舗開店。
- 昭和19年(1944年)
- 余剰売場を軍用プロペラ工場に転用、また家財保護預り所として市民に提供。
- 昭和20年(1945年)
- 大空襲にほとんど無傷で残る。
- 昭和21年(1946年)
- 進駐軍からの全店舗接収命令。PX(アメリカ陸軍専用の駐屯地の売店)、慰安施設として使用される。
- 昭和27年(1952年)
- 6年間にわたる接収の後、返還される。大阪店改修し再開。
こうしてそごうの歴史をみていると、重いですね。ここで今の経営陣が頑張らんとアカンよ、マジで。