京都での景観論争というのは昨今問わずあったようで、この博物館の開館した時代にもちょっとした騒ぎがあったそうです。今の建築では、なくなってしまったこの重量感やsymmetry(シンメトリー:対称性)も歴史の1ページとして残ってゆくことでしょう。
しかし、なんでまたこんな西欧様式まるだしの設計をすることになったのでしょうか。
答えは簡単で、博物館のお手本が日本に無かったんです。つまり、博物館・美術館という建築物が日本でまだ無かったころに、初めて手がけた模索(模倣?)の跡だったのです。
当時「帝国京都博物館」として設計した片山東熊(かたやま とうくま)は、後に東宮御所としての赤坂離宮を設計しますが、この博物館は日本人建築家による建築の西欧化の典型的な例であり、まさに和魂洋才(わこんようさい)の具現化ともいえるでしょう。
片山氏は、宮内庁匠寮のいわゆる宮廷建築家として皇室関係の建築という限られた世界で空間を実現していた人物であります。彼がその博物館を京都という地で西欧建築の様式で実現したことは注目するポイント。皇室の空間を、西欧的な様式で埋め尽くしたのと同じように、彼は新たな国家の建築的スタイルの指針としてその博物館を設計したのです。博物館はまさに産業文化を体現する国家の要となる空間であったのかも知れません。
ちょっとお堅い表現になってしまいました。
つまり日本の美術館・博物館の歴史は、この片山氏を外しては語れないということでした。
かつての美術品というのは建築と一体化したものが多く、ルネサンス時代から美術品は持ち運びの出来る枠に納まった簡易的なものへと変化していった。建築は「強・用・美」という構造・機能・美の3つを兼ね備えたものであったが、時代と共に美は取り外され、簡素な印象を受け、いわゆる箱物建築の時代へと至る。
今の建築ではありえない惜しみなき装飾、優美な風格を誇示しつづけるこの博物館の時代背景と片山氏の存在を知った上で見に行くと、また違う視点で見学できることと思います。
博物館の正面は広場を大きくとってあります。つまりアプローチが長い。アプローチが長いほど現世から違う世界への心の準備をさせるかのような暗示にかかっちゃうわけです。高級感あふれる建物はアプローチが長い場合が多いですね。元帝国の威厳をここで感じる事が出来ます。
さて、仕事を見てみましょう。
構造は煉瓦造。屋根の黄緑色になっているのは、銅板。銅は月日がたつと緑青(ろくしょう)、いわゆるサビがこのような色になって出てきます。これもまた味があって良いのですが、現在は酸性雨が降ってくる時代、銅をも溶かす威力があるために保存は必死です。窓ガラスが丸いのは、昔は丸いガラスの方が作りやすかったためです。プぅ〜っと膨らませて、ペシャンと圧せば丸く出来るでしょ?
きっとガス灯かなにかで夜は照らしていたのでしょうか。ハイカラな時代だったことでしょうね。